←前のページ 次のページ→   2006年7月1日  
「いじめについて考える」の巻
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  西郷 重人     ・・・・・・
 知人の娘さんが自殺を図った。
 鬱の治療をしていたことは聞いていた。ご主人とその母親が寄り添っていたが、目を離した一瞬のことだったらしい。
 以前働いていたパート先で受けたいじめが原因で鬱になったのではないかと言う。
 詳しいことは判らないが、徹底無視と「ダメ出し」、更には周りの人まで含めたいわゆる「村八分」が続き仕事を辞めざるを得なくなり、以来苦にしていたという。事実だとしたら何という理不尽。
 いじめを原因とする自殺や逆襲などが社会問題化されて久しい。しかし多くの場合それは学校が主な舞台ではなかっただろうか。そして大人になっていく中で、過去の体験とか回想として語られる事のような気がするしそんな小説も多い。
 そうした体験や出来事なども糧にして人は成長し、大人社会は創られていくのだと漠然とながら考えてきた(そうした「原体験」が後々まで影響を及ぼすと言うことももちろん聞くが)。
 今や大人の世界でこうしたことが起きていると言うことが嘆かわしい。
 いや、大人になりきれていないから起きるのかも知れない。
 いじめという認識がないからいじめはエスカレートすると言う、被害者はその分心の痛みが底深くなる。
 いじめる本人には仮に間違いや的はずれではあってもそれなりの理由があり、指摘の余地是正の余地もあると思うが、その周囲の者は何なんだ、
 本人以上に嘆かわしい存在である。
 周囲の者がもう少し心ある行動がとれれば深刻にならずに済んだかも知れない事が、付和雷同的に一緒になって礫を投げる様を想うとおぞましい。
 ある講演会でアウシュビッツの話が出た。考えてみるとホロコーストは究極のいじめであり到達点であった。差別、つまりは自己が相手に対して優越するという錯覚或いは思い上がりが垣間見える。
 とすると「勝ち組・負け組」などと嫌な言葉で言われるような差別化が進む今の日本社会ではこうしたことがもっと増えていくのかも知れない。私たちの周りでもいくらでも起こり得るということである、自戒しなければならない。
 なぜもっと他者を慮ってやれないのか、なぜ他者を慮るゆとりが社会の中にないのか・・・。
 知人の場合は幸い発見が早く、大事には至らず何よりであった。「福岡にも親しい事務長がいる法律事務所があるから紹介するよ」程度のことしか言えずにいたが何とも悲しい、そして腹立たしい出来事である。

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