←前のページ 次のページ→   2004年7月1日  
★都立七生養護学校事件と日の丸・君が代強制に関連して

子どもの発達権・学習権と教育権を考える

日野市民自治研究所で発表したものをまとめたものです。 弁護士 窪田之喜
1、はじめに
 「緑と清流のまち」日野市の中でもとりわけ緑に囲まれた七生丘陵の一角、そこに七生養護学校がある。この七生養護学校に起きた性教i育をめぐる東京都教育委員会(以下、都教委という。)等の教育介入が全国的にも注目される事態となっている。
 七生養護学校に起きた事件(全都の障害児学校に波及)(と日の丸・君が代をめぐる一連の事件)は、私たちに「教育とは何か」を根本から問うこととなっている。
 七生養護学校の性教育(「こころとからだの学習」)には、「生きる力」を獲得するため努力する子どもと教師の迫真の姿があった。この小論は、この事件に直面した法律実務家の一人として、黙過できないとの思いから、基本的法的視点を検討したものである。
2、七生養護学校の「こころとからだの学習」とは
七生養護学校の「こころとからだの学習」とは如何なる内容か。法的検討の前提として知らなければならない。ここで、詳細を記すことはできないので、詳しくは、『七生養護の教育を壊さないで』(つなん出版、刊行委員会編)を参照されたい。
a,きっかけ
1997年に学校内外で「性的行動の表面化」したことがきっかけとなった。問題行動が繰りかえしておこり、生活指導的な対症療法では効果がなく、「教員も心を痛めて消耗し、無力感を募らせた」。そこから、生活全体の中で、ゆったりとして安定感を感じ取れる人間関係を保障することが必要だという教員たちの意識変化が生まれ、「こころとからだの学習」を生み出すこととなった。
b,広い意味での性教育
この視点で生み出されてきた七生養護の性教育は、障がい児の発達段階に応じた「性にかかわる知識」を教えることにとどまらなかった。「自分の存在を受け入れてくれたといううれしさの体感」「大事にしたり優しくしたりする経験をとりいれる授業」などをとおして、自分を肯定的にとらえる気持ちや人間関係での安心感・信頼感を獲得する学習でもあった。それは、小さい時からの積み重ねの学習であり、思春期をむかえたときは、自分が大人になる変化であると肯定的に受けとめられる学習として発展していくものであった。
具体例 略
c,「こころとからだの学習」「からだの科学と健康と安全」
こうして、七生養護学校の性教育といわれるものは、「こころとからだの学習」と総称される幅広い学習教育として、子どもたち及び保護者の意見が反映される形で、教師たちが7年間にわたって積み重ねてきたものであった。
昨年の秋、カナダの性教育の先覚者であるメグ・ヒクリングさんの講演を聴く機会に恵まれた。メグ氏は講演で、性の教育は「からだの科学と健康と安全」の視点ですすめるものと表現し、性教育は幼児期から系統的になされるものであることが強調されていた。性器の名称や他人が勝手に触れることのできない特に大切な身体の一部であるなどの認識も、幼少期から自然に学ぶのがよいことであると言われていた。カナダでは、性教育の普及で例えばはじめての性交経験年齢が上がったこと、性的被害も減少したことなど、貴重なデータも紹介されていた。メグ氏の「からだの科学と健康と安全」という視点での性教育は、七生養護の「こころとからだの学習」と基本視点において共通であった。
3、七生養護学校の性教育を否定した言い方
七生養護の性教育実践についての都教委の対応は、極めて非教育的で断定的なものであった。調査報告は、「七生養護学校において、全校的な取り組みとして組織的に不適切な性教育を行っていた」と断定した。
4 都教委の介入行為と処分の違憲違法性
(1)都教委の教育介入は如何なる権限にもとづくか
ところで、東京都教育委員会は、七生養護学校の教育内容を不適切と評価し、教材を持ち去り、教員を処分するという異例の行動をとったが、この都教委の行為は、如何なる法的権限に基づくものであろうか。憲法・教育基本法・学校教育法等の理解からは、都教委の介入行為を合法化する根拠を導き出すことは難しいと言わざるを得ない。
 以下の諸点を踏まえて理解されるべきである。
(2)事柄の基点は子どもらの発達権・学習権
障がい児たる生徒の性的問題行動や性的被害の発生などの現実が、子どもたち自身の心身の成長に即した「こころとからだ」の健康と安全・安心につながる学習を求めた。保護者と教師・学校がこれに応えて手探りして作りあげてきたものが、七生養護学校の「こころとからだの学習」である。
 基点は子どもらの発達権・学習権、憲法26条の教育を受ける権利である。国民ことに子どもの教育を受ける権利は、「子どもは未来における可能性を持った存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開花させるべく自ら学習し、事物を知り、これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であり、この子どもの学習する権利を保障するために教育を授けることは国民的課題である」(東京地方裁判所昭和45年7月17日判決・いわゆる教科書訴訟杉本判決。以下、杉本判決という。)。
(3)教育の責務、国民の教育の自由、教師の教育権と自由
今や、杉本判決は、戦後史の一こまとなった観さえある。
 同判決は、子どもの教育を受ける権利をふまえて、「子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務をになうものは親を中心として国民全体であると考えられる」と述べ、さらに「このような教育の責務は、いわゆる国家教育権に対する概念として国民の教育の自由とよばれるが、その実体は右のような責務であると考えられる」と重ねて鋭く指摘している。ここでは、家父長的制度の下で親の子どもに対する支配権と考えられていた意味での「親権」が否定されて、いわゆる「国家教育権」も否定されている。
 その上で同判決は、以下のように、学校教育と教師の役割について論をすすめている。 「現代において、すべての親が自ら理想的に子どもを教育することは不可能であることはいうまでもなく、右の子どもの教育を受ける権利に対応する責務を十分に果たし得ないこととなるので、公教育としての学校教育が要請されるに至」る。
 「公教育としての学校において直接に教育を担当する者は教師であるから、子どもを教育する親ないし国民の責務は、主として教師を通じて遂行されることとなる。」
 「しかも、教育は、・・人間が人間に働きかけ、児童、生徒の可能性を引き出すための高度の精神的活動であって、教育に当たって教師は学問、研究の成果を児童、生徒に理解させ、それにより児童、生徒に事物を知りかつ考える力と創造力を得させるべきものであるから、教師にとって学問の自由が保障されることが不可欠であり、児童、生徒の心身の発達とこれに対する教育効果とを科学的にみきわめ、何よりも児童、生徒に対する深い愛情と豊富な経験を持つことが要請される。してみれば、教師に対し教育乃至教授の自由が尊重されなければならないというべきである。」
(4)国家教育権論から教育条件整備義務へ
 判決は、国家の理念を明確にし、福祉国家の教育的責務を論じている。
 「現代国家の理念とするところは、人間の価値は本来多様であり、また多様であるべきであって、国家は人間の内面的価値に中立であり、個人の内面に干渉し価値判断を下すことはしない」、「国家は教育のような人間の内面的価値にかかわる精神活動については、できるだけその自由を尊重してこれに介入するを避け、・・・教育の機会均等の確保と、教育水準の維持向上の為の諸条件の整備確立に務むべきことこそ福祉国家としての責務である」と説く。国民の精神生活の自由を支配しないのが国家の理念であり、福祉国家においては教育条件整備の責務を負っていると述べている。国民の精神生活の国家からの自由を謳い、逆に、福祉国家の責務として教育条件整備義務を明らかにしているのである。
(5)教育基本法10条と「不当な支配」
 判決は、教育を受ける権利、国民と教師の教育の自由を論じた後、教育基本法10条が「不当な支配」の禁止(1項)と、及び教育行政が教育の「諸条件の整備確立を目標として」行われるべきこと(2項)を定めていることに関して、述べている。
 判決のこの部分の論旨もまた徹底したものである。戦後の教育改革と教育基本法の成立事情を、詳細に検討したうえで、教育基本法10条の解釈を展開している。
 教育基本法の制定に関わった田中耕太郎が、教師の司法官的独立を強調したことにも通じている。教育は政治的に支配されてはならず、教育の政治的中立性は、「教職員が司法官のごとく地位の保障を教授することを論理的必然として要求する。」というのである(1946・第90帝国議会衆議院帝国憲法改正委員会)。
 「ここに「不当な支配」というとき、その主体は主としては、・・一部の党派的勢力を指すものと解されるが、・・・本条1項前段は、教育の自主性、自律性を強くうたったものと言うべきであるから、・・・国の行政当局もまた「不当な支配」の主体たりうることはいうまでもない」、「本条2項にいう「条件整備」とは、教育の内容面に権力的に介入するものであってはならず、教育が自主的、創造的に行われるよう教育を守り育てるための諸条件を整えること、いいかえれば、教育は学校教育にあっては教師と生徒の間で両者の人格的、精神的つながりをもととして行われるのであるから、この実際の教育ができるだけ理想的に行われるよう配慮し、その環境を整えることを意味すると解すべきである。」、「かくて、教育施設の設置管理等のいわゆる教育の「外的事項」については、原則として教育行政の本来の任務とすべきところであり、また、教育課程、教育方法等のいわゆる「内的事項」については、公教育制度の本質にかんがみ、不当な法的支配にわたらない大綱的基準立法あるいは指導助言行政の限度で行政権は権限を有し、義務を負うものと解するのが相当である。」と、述べる。
 子どもの教育を受ける権利を基点として、親と国民の教育の責務と自由、国家の教育責務性について理解を、教育基本法10条の解釈に一貫させているのである。
(6)杉本判決に照らした七生養護学校事件と都教委の違憲・違法な行為
 以上の判決内容に照らして、七生養護の「こころとからだの学習」をめぐる事件を検討すると、その学習・教育内容と教材考案し使用することを含む教育方法について検討し決定する権利・権限は、子どもたち・保護者と教師・学校にあるのであって、教育行政にこれを決定する権限を認めることはできない。障がいをもった子どもたちが、ある水準の教育を等しく与えられるために、教育行政が教材、教課内容、教授方法などについて一定の役割を担いうるとしても、それは必要最小限度の大綱的事項に限られ、具体的には教師の教育に自由を尊重しつつ、これに対する指導助言、参考文献の発行等の法的拘束力をもたない方法で為されるべきである。本件のように、直接、教育行政が教育内容や方法について教師たちを調査し、教育の実行を差し止め、教材を持ち去るなどの行為が許されるものではない。
 それは教師たちの教育の自由の侵害であり、教育行政による教育の「不当な支配」支配であり、違憲・違法行為である。教育委員会の処分自体が違憲・違法であり、無効ないし取り消されるべき処分である。民事的には教育委員会は、不法行為に基づく損害賠償義務を負うこととなる。
(7)学校教育法違反
また、教育内容にかかわっての今回の教育委員会の行為は、学校教育法78条・28条に違反する。同法の78条が準用する28条では、「教諭は、児童の教育をつかさどる」「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する」(B項)と定めている。杉本判決に即して、この条項を読むならば、この規定は、教師の教育の自由をふまえて「教育をつかさどる」教諭の役割が明記され、校長が監督指導する(教諭の教育をつかさどる権限をおかさない。)ことを定めていると理解することができる。
 星野安三郎東京学芸大学教授が、旭川学力テスト事件大法廷判決にふれて以下の指摘をしていることは、注目すべきである(判例時報昭和51年7月11日号)。
 「憲法や教育基本法などに示された民主主義教育法の原理と制度についての認識が必要である。たとえば、昭和16年に制定された国民学校令16条には「学校長ハ地方長官ノ命ヲ承ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ監督ス」と定め、17条では「訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル」とあったものが、現行の学校教育法では・・・「地方長官ノ命ヲ承ケ」や「学校長ノ命ヲ承ケ」がそれぞれ削除され消滅していることの意義を重視すべきだということである。これは、教基法10条の教育と教育行政の分離を具体化したものと思うからである。」(7頁)。
5 旭川学テ最高裁大法廷判決に照らしてみると
(1) 二つの教育権論と最高裁判決の立場
 最高裁判所大法廷は、1976年5月21日に、1961年に実施された全国中学校一斉学力テストの実施に際して、北海道旭川市立永山中学校でこれを阻止しようと説得活動中に発生した建造物侵入等の刑事事件に関して判決をくだした(以下、旭川学テ事件という。)。国家と教育権のあり方について判断した唯一の最高裁大法廷判決と指摘される。
 判決の中で、二つの教育権論が整理検討されている。
a,国家教育権論
 国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、・・国会の法律制定を通じて具体化されれるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における教育の内容及び方法についても包括的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の受権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する。
b,国民の教育権論
c,最高裁判決の立場
 最高裁判所は、二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと、判断した。
 判決は、憲法26条について、「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特にみずから学習することのできない子どもは、その学習要求を実現するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、それを充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである」と解釈している。
  杉本判決との違いは、子どもの教育を受ける権利に向き合う、親、教師、国家(地方公共団体を含む公権力)の責務を相対化し、杉本判決が「教育は、・・人間が人間に働きかけ、児童、生徒の可能性を引き出すための高度の精神的活動であって、教育に当たって教師は学問、研究の成果を児童、生徒に理解させ、それにより児童、生徒に事物を知りかつ考える力と創造力を得させるべきものである」、「何よりも児童、生徒に対する深い愛情と豊富な経験を持つことが要請される。」、従って「教師に対し教育乃至教授の自由が尊重されなければならない」と指摘している視点が、後退しているのである。
 判決は続けて、「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導きだされない」という論理を導き出した。この転回点に教師の位置の評価があるように思う。
(2)判決は「国の教育内容決定権」を認めているが限定的である
 判決は、教育の責務を担う親と教師及び国の位置を相対化しつつ、「国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、またしうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」と教育内容決定権能を認めるのである。
 しかし、判決は、「本来人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育・・に対する国家的介入にについてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、・・子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入・・は、許されない」と、国の権能に制限のあることも指摘している。判決が、「教育行政機関が行う行政でも、(教基法10条1項の)「不当な支配」にあたる場合がありうる」、「教育行政機関が・・法律を運用する場合においても、・・教基法10条1項にいう「不当な支配」とならないように配慮しなければならない拘束を受けている」とするのも、かかる見地を具体化するものである。
(3)国の教育行政機関の設定する基準の大綱的性格
 以上の見解を下に、判決は、国の設定する教育内容及び方法に関する基準は、「教師の創意工夫の尊重等教基法10条に関して・・述べたところ、・・教育に関する地方自治の原則をも考慮し、・・教育の機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要か合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならない」という。学習指導要領もこの大綱的性格の教育行政の設定した基準である。
(4)最高裁旭川学テ判決の見かた
 判決の評価は分かれるとしても、以下の点を生かすべきである。
a,憲法26条教育を受ける権利は、経済的生存権にとどまらない国民・子どもの「学習権」であることを認めた。子どもは、学習要求を充足する為の教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する。
b,子どもの教育は、教育主体側の「支配的権能ではなく」、学習権保障の責務である。
c,憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含む。普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における自由が保障されるべきことを肯定できる。
d,「国の教育内容決定権」を認めているが、国・文部省(当時)当局が主張してきた、法律に基づけば教育行政機関は包括的全面的に教育内容を決定できるとの考え方は、「極端な見解」として退けられた。
 注目すべき点として、判決が教育における地方自治に触れたこと。
★補完性の原則の視点から捉え返す問題意識。
(5)最高裁学テ判決と七生養護事件
 杉本判決と七生養護事件でみた視点は、学テ判決からみてもほぼ同様の見解を導くこととなると思われる。
 それは、国や自治体の教育行政が大綱的基準を設定して教育内容や方法に一定の水準を保障する機能が認められるとしても、七生事件のように、教育行政が直接教育現場の内容を調査し、これを中止させ、教材を引き上げるといった行為をなし得る根拠を、この学テ判決から導き出すことは到底不可能だからである。仮にそのようなことが可能となる場合を想定するとすれば、日本国憲法9条の下で日本のアジア侵略を公然と美化したり、男女同権を否定するなど極端な反人権教育を実施したり、一見明瞭な反憲法的な独善的教育が為されているような場合であろう。しかし、そのような場合であっても、父母と教師・学校と教育行政が言論を通して、子どもの教育を受ける権を保障し、人格の完成と真理を学ぶ視点で民主的に対応することが求められるのであって、強権的手法が直ちに実行されてよいわけではないであろう。

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