憲法第25条
〔生存権〕
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
←前のページ 次のページ→   2002年12月1日  

今、なぜ「地方自治の確立」か その3

 憲法25条に立ち戻る 弁護士 窪田 之喜 
1 先の見えないいらだち
 「90年代不況」という言葉は、深刻な生活実感と重なって、戦後特別な長期不況という観念を国民に定着させたのではなかったかと思う。その歴史的不況が、21世紀も2年目が終わろうとして今日、暗雲立ちこめるますます深刻な事態として進行している。小泉首相は、不良債権処理を急ぐというが「不良債権処理」を進めるといっそう不良債権が増大するという現実が浮きあがり、小泉経済改革の根本的失敗を証明することにもなっている。それなのに、世論調査では小泉人気はやや低迷から脱し、自民党が一連の補欠選挙で勝っている。世論調査では、民主党支持率はかつて20%もの支持を集めていたことの影すらもない5%にも落ち込んでる。国民世論の混迷をみる。
 わが国では、90年代の10年間・460兆円の公共投資がなされたという。海峡を渡る橋や、ダム、空港やさまざまな公共工事につかわれた。1兆円という金は、1万円札を積み上げて約富士山3つ分、1万bのたかさになる。90年代の10年間で富士山の高さの札束の塔が、実に1000本以上分つかわれたのである。林立する1000本余の札束の姿を誰も想像するできないのではないかと思う。
 その金をつぎ込んでなお、深刻な病に喘ぐ日本経済の現実である。まさに金の使い方が間違っていたいたのだと事実がハッキリと語っている。
 妻が言った。「それだけの借金で特養ホームをつくったりホームヘルプサービスを充実させたり、学校改修や保育園づくりをやっておけば、今頃、同じ借金でも役に立ち(国民の)元気が出たでしょうにね。それならがんばりがいがあるのに」と。私は、全くそうだと、実に心から共感した。
その失政をリードした政官財のリーダーたちは、増税(消費税・保険料など)だ、社会保障の削減だ(当面3兆円)、リストラだ、そして有事法制だ教育基本法改正だと、国民を脅し国民に説教して、自らの反省を知らず自らの無能を知らない。
2 国のあり方・改革の基本
 今、誰もが、安心して人間らしく生きられる社会のあり方を求めているのではないか。過度の競争原理のもとに少数の人間にのみ勝利と巨大な富を保障し、社会不安を防止するために敗者へのセフティーネットを用意するという裸の競争社会を誰が望むのだろうか。アメリカの主導する極端な市場原理主義に対して、ヨーロッパの国々は誰もが公平に生きることのできる社会福祉国家像を求めて新しい社会像を提起している。日本もこの道をすすみアジアの共同と世界の新しい共生社会を目指すべきであると思う。
 これは、言葉をかえていえば日本国憲法第25条の実現を中心課題とする政治経済像である。決して他から急に借りてくる理念ではなく、現に私たち日本国民が持っている・生きている基本法である日本国憲法の要なのである。
 にもかかわらず、90年代の460兆円の無駄遣いに集約されている愚考・愚策をなぜ私たちは、超えられなかったのかと私自身も自らに問う思いが湧いてくる。そして、自分自身が経済というもの政治というものを、1人の人間から出発し、生活の場から考えるというしっかりとした基本をもっていなかったのではないかという反省に至る。
 例えば、高齢者に金をかけるのは「枯れ木に水をやるよいなもの」と言った政治家がかつていた。そうではなく誰もが長寿を願い、祝い、そのために一生懸命働き、それが報われる社会、そのために経済や政治があるのだと言い切る社会が必要だったのではないかと思う。そのためには、金・物・人を動かす力=権力は、生活に根ざしたところにあって、人々が他人任せでなく自ら所有し参加し行使する権力でなければならないのではないか。そういう政治システムでなければならないのではないか。
 こう考えると、日本国憲法第8章・地方自治の定めを充実した地方自治の根拠として理解し、政治・社会システムの基本に位置づける改革構想がハッキリしてくるように思われる
3 「充実した地方自治」を基礎にした国こそ今目指す方向
 重要なことは中央政府が決め、自治体はその下にあるという形をくつがえす必要がある。公的事務の分配は、生活に近い市町村が最優先に、市町村で効果的に出来ない事務を都道府県が、中央政府は地方自治体が効果的に処理できない全国民的な性質・性格の事務のみを担当するという原則(補完性の原則)を実現するべきである。
 地方自治体の事務は住民の意思に基づき住民のために行われる(住民自治の原則)。中央政府も都道府県も市町村も対等平等であり、地方自治体は中央政府から独立した自治権をもっている(団体自治の原則)。このような権限を持つ自治体は当然に自主財源を保障されなければならない。
 こうした意味の真に地方自治を保障する地方分権改革が進むならば、中央政府の民主化と共に日本は、人々の生活に根ざした活力ある新しい民主主義の国・社会的な福祉の国として再生することができる。
 こうした根本的議論と実践に、1人ひとりのささやかだが確実な努力をそそぎ込み、やがて大河となるような一滴になりあいたいものである。
4 「これが改革とは恐れ入る」
 この言葉は、私のものではない。去る11月1日、朝日新聞の社説のタイトルである。中味は、10月末に出された政府の地方分権改革推進会議の最終報告を論じたものである。
 この報告は、総論では地方分権をうたい、「補完性の原則」を言い、地方自治体の自主性を論じているが、魂はからである。権限と言う名の義務を地方自治体に押しつけておいて、財源は渡さないと言う姑息なものである。最終報告案「税源移譲明記せず」と同紙10月27日付一面に報道がある。その記事の中では、議長代理を務める委員は「税源移譲を(最終報告書に)書くなら調整しない。私はやめる」と税源移譲論をいう研究者などにすごんだようすが述べられている。腹が立つ。私は「辞めなさい」と叫びたくなる思いでこの記事を読んだ。
 地方分権改革と言いつつ、似て非なるものが横行している。だからこそ骨格のしっかりした議論をしなければならない。自治体から変えなければならない。長野県の田中知事が最終報告を厳しく批判していた。そのような声がもっともっと必要である。

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