←前のページ 次のページ→   2003年10月27日  
●連載その2
弁護士 山下 太郎
聞き語り「弁護士-飯塚和夫」
●小・中学校時代は「軍国少年」
 飯塚は,1931年9月26日,東京府北多摩郡立川町で生まれた。小学校,中学校時代は,町中に「欲しがりません,勝つまでは!」「粉砕鬼畜米英!」「出てこいニミッツ・マッカーサー,出てくりゃ地獄へ逆落とし!」等のステッカーがあふれ,毎月,航空隊,予科連等に合格した中学校の上級生が,号令台の上で「天皇陛下の御為に,一機一艦を撃沈(天皇のための自爆テロということだそうだ),滅私奉公あるのみ,死んで護国の鬼となり,靖国神社へ帰ってきます」と言って出征していくを見送った。授業では,「軍国主義,帝国主義こそが人間の考えた最高の思想で,その頂点に君臨するのが天皇陛下である」「私たちの価値観の究極は天皇陛下の御為に死ぬことであり,民主主義は自己中心の堕落した思想である」と教えられた。
 飯塚自身も典型的な軍国少年であり,毎日,工場へ機関銃の薬莢を作りに行き,出征する上級生を見送るたびに,自分も後に続こうと決心し,子供心に,「徹底的に戦おう」と同級生と真剣に話し合っていたという。
 まさに,戦争一色の世の中であった。
●敗戦を迎えて、正義・不正義の逆転を目の当たりに
 1945年8月15日,神国日本は米英の連合軍に無条件降伏した。9月1日,飯塚が2学期の始業式に登校すると,軍国主義を叫んでいた校長先生は飯塚たちに対し,「軍国主義,帝国主義は間違っており,民主主義こそ私たちに幸福をもたらす考えである,戦争に負けたのは良かったのだ」と話したという。今までの正義は不正義となり,不正義が正義となった。飯塚は,何が何だかわからなくなったという。
 そして,そんな折り,飯塚は「戦争中,戦争反対の行動をし,獄中生活を送っていた人々が釈放される」という新聞報道を読んだ。そこには,「日本の戦争は間違っているから負ける,自分は今日あることを信じていた」という,下獄されていた人の談話が載っていた。天皇陛下の御為に死ぬことが人間として最大,最高の義務であることが当たり前であった世の中で,自分の信念を貫き,戦争に反対して投獄されていた人々がいたことを知り,飯塚は驚くとともに,感動を覚えた。そして,この新聞報道を読んで,情報の公開があって初めて正確な行動が可能となることを身をもって知ったという。
 自分が信じて疑わなかった社会の価値観が180度大転換するなど,1970年生まれの私などには到底想像がつかないが,軍国主義,全体主義から民主主義への価値観の転換,そして軍国主義の世の中にあっても戦争反対を貫いていた人々の存在を知ったことは,その後の飯塚の人間形成に決定的な影響を与えたことは間違いないだろう。
●ポポロ事件をきっかけに、法曹を志すものの・・・波乱に満ちた道のりが
 その後飯塚は,高校時代に雑誌「世界」でポポロ劇団事件(注)を読んだことがきっかけで,法曹を志し中央大学法学部に進学したが,司法試験受験のための資金を作るため,学生の身分のまま米軍立川基地に就職した。週2回の仕事の休みの時に大学に行き,働きながら勉学にいそしんだ。
 当時,立川基地では,一方で若い新規労働者を採用しながら,他方では首切りをしていた。首切りの対象となったのは40代の労働者で,彼らは占領軍の為に国から徴用され,半強制的に基地労働者となった人々であった。
 何年も基地労働者として生活の糧を得ていた彼らが首切りにあえば死活問題である。働く仲間として,また人間として,これを見過ごすわけには行かない。飯塚は持ち前の正義感から,迷うことなく組合の反対運動に身を投じた。程なく飯塚は組合執行部となった。組合活動に没頭する余り,大学も休学した。
 かつての軍国少年は,いつしか労働運動の急先鋒となっていた。

(注)ポポロ事件
1952年2月10日,東京大学公認の学生団体「ポポロ劇団」が,大学の正式許可を受け構内の教室で松川事件を素材とした演劇発表会を開催したが,その際,会場内に私服警官4名が潜入していたのを学生が発見した。学生たちはそのうち3名の身柄を拘束し,警察手帳を取り上げて謝罪文を書かせたが,この学生たちの行為が暴力行為等処罰に関する法律違反として起訴された事件。憲法上の基本的人権である学問の自由及び大学の自治と国家警察権との関係についての重要な裁判事件である。


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